TOP > 宜野座村の歴史
宜野座が歴史に登場する以前の様子は、村内にある貝塚などの遺跡によって断片的に知ることができます。 なかでも福地川の河口北側にある前原貝塚からは、オキナワウラジロガシの実の炭化物が多量に出土してお り、当時の食生活を垣間見ることができます。宜野座にはグスク時代の遺跡も数力所あり、継続してこの地域に人々が住んでいたことが推測されますが、 現段階では具体的なことはまだよくわかっていません。1649年の『絵図郷村帳』に出てくる現在の宜野座村域の地名では、古知屋、宜野座、惣慶、漢那の4村。ほかに「 はま村」が見えますが、のちに漢那村に合併されました。これらの村々は金武間切に属して「上四ヶ」とも称さ れ、地域としてのまとまりをもっていたとされています。 伝承によると、いつ頃かははっきりしませんが、この地域へ島横目役として宜野座という姓の役人が派遣され てきたといわれており、その島横目屋敷跡も残っています。 17世紀中頃からの間切再編で、1695年古知屋村は久志間切に移管されましたが、古知屋の祭祀が宜野座ノロ の管掌下にあったことから、1719年にはもとの金武間切に復帰しました。現在の宜野座村域の村々は、1872年琉球藩、1879年沖縄県の所管となり、1896年国頭郡に所属。1908年島嶼町 村割により、金武間切の古知屋、宜野座、惣慶、漢那の4村と現金武町域の3村をもって金武村が成立。その後、終 戦後の1946年、金武村の一部が分村して宜野座村が成立しました。 1879年の廃藩置県前後から、宜野座村域にも屋取集落(首里の士族が移りすんだ集落)ができはじめ、アニンドー、 城原、大久保、兼久、前原、潟原などの屋取集落が形成されました。1935年以降には福山、古知屋の開墾と人植が はじまります。これらの大半は現在も小字名として存在しており、城原と福山は終戦後、宜野座村の分離・独立と 同時に行政区となりました。 出所:宜野座村勢要覧(改訂)より抜粋 |
宜野座村には古くから伝わるさまざまな文化財があり、村の宝として大切に保存、継承されています。 主なものとしては、下記のような物があり、宜野座村では村立博物館にて広く紹介されております。
【文化財】
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【伝統芸能】
【自然】
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出典:宜野座村の文化財集(1)(2) |
●1948年 米軍政府の元、戦後初の公選(市町村、市町村議員選挙)が行われ、3代村長と して新里銀三が当選。 その後、市町村制が交付され市町村は法人としての公 共事務を処理することとなり、村政がスタートとともに戦後復興事業が開始された。●1950年 4代村長に田端景俊が就任。 農業ダム建設を中心とした農業振興計画に尽力 ●1952年 琉球政府設立。
●1964年 8代村長に与儀実清が当選。
●1972年 政策権がアメリカ合衆国から日本政府へ返還され琉球から沖縄県となる。 10代村長に末石森吉が就任。 宜野座村は復帰後いち早く土地改良事業を導入し圃場整備が行われる。
●1980年 12代村長に仲程実湧が就任。 「水と緑と太陽の里」をキャッチフレーズに「自然と産業との調和ある村づく り」を村政の主要政策として掲げた。
●1988年 14代村長に伊藝宏が就任。 海浜開発として宜野座リゾートが始まる。国営の漢那ダム、村の大川ダムが 完成。漢那ダムまつりが開催され、現在でも継承されている。
●1999年 16代村長に浦崎康克が就任。 「健康文化むら」をキーワードに、かんなタラソセンター整備事業(現:かん なタラソ沖縄)GRAMAN人材育成センタ ー整備事業(現:宜野座村文化センター)、サーバーファーム整備事業(現: 宜野座村サーバーファーム)を導入。 観光産業の発展、情報化社会への積極的な参加に取り組み、2000年にはてんぷ す宜野座村を宣言。県内外へ宜野座村の魅力を発信した。
●2003年からは阪神タイガース春季キャンプ誘致。
●2004年 18代村長に東肇が就任。 「健康づくり」をキーワードに2006年には宜野座ドームが完成。
●2009年にはIT関連産業をさらに発展させるべく、 宜野座村ITオペレーションパーク第2サーバーファームが開所。
●2010年には「健康宣言の村」また「有機の里 宜野座村」を宣言。 宜野座村村営学習塾21世紀みらいが開講し、生徒の学力向上を推進している。
出所:宜野座村勢要覧(改訂)より抜粋 |
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